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ジョン・ファンテ『バンディーニ家よ、春を待て』訳者あとがき

家に帰ることの意味

 一九三八年十月、ニューヨークの出版社スタックポール・サンズから、ジョン・ファンテの長篇デビュー作『バンディーニ家よ、春を待て(Wait Until Spring, Bandini)』(以下、引用文を除き『バンディーニ』と表記する)が刊行される。発売を一ヶ月後に控えた同年九月、ファンテは飲み仲間のウィリアム・サローヤンに宛てて、熱のこもった手紙を書き送っている。

親愛なるウィリー
 僕の本『バンディーニ家よ、春を待て』は、一〇月一〇日かその前後に出る予定だ[…]。こいつは掛け値なしの大傑作だぞ。聞くところじゃ、はやくも五〇〇〇部の予約が入ってるらしい。
(一九三八年九月二日付け)

親愛なるウィリー
 手紙をありがとう。本の宣伝に進んで協力してくれたことにも、心から感謝する[…]。僕は不滅の芸術作品を創造してしまった、間違いないよ。1
(一九三八年九月一五日付け)

 そして、こうした言葉はかならずしも、夢見がちな新進作家のうわ言ではなかった。『バンディーニ』が刊行されるや、批評家たちは本作品に惜しみのない賛辞を浴びせた。年末に新聞各紙が掲載する「ベスト・オブ・ザ・イヤー」の欄には、アンドレ・マルローやスタインベックら著名作家の書籍とならび、つねに『バンディーニ』の名が挙げられていた。「サンフランシスコ・クロニクル」紙のジョゼフ・ヘンリー・ジャクソンと、「シカゴ・デイリー・ニュース」紙のスターリング・ノースは、『バンディーニ』を一九三八年の最高の一冊に選出している。売り上げも好調で、刊行から約三ヶ月後、「サンフランシスコ・クロニクル」(一九三九年一月一五日)の「今週のベストセラー」の欄では、『バンディーニ』が第四位に登場している。さしものファンテも不平のこぼしようのない、順風満帆の船出だった。2  とはいえ、ここまでの道のりはけっして平坦ではなかった。本作品を世に問う以前、ファンテは長い「習作時代」を過ごしている。『バンディーニ』はファンテにとって、五年越しの労苦が結実した念願の長篇小説である。
 一九三二年、短篇「ミサの侍者(Altar Boy)」が文藝雑誌「アメリカン・マーキュリー」に掲載され、ファンテは作家としてのキャリアを歩みはじめる。当時のアメリカにおけるもっとも権威ある文藝誌の一つだった「マーキュリー」は、「ボルティモアの賢人」とも渾名される著名な批評家ヘンリー・ルイス・メンケンを主幹にいただき、未来ある若い書き手の発掘に努めていた。ファンテは十代の終わりにメンケンの文章に出会い、彼を精神的な師として仰ぐようになる。一九三〇年の夏、ファンテは初めてメンケンに手紙を送り、以後、二人の文通はメンケンの晩年まで、二〇年以上にわたって継続する。3
 「ミサの侍者」がメンケンに採用されてからほどなくして、ファンテに単行本執筆の話が持ちかけられる。弱冠二十三歳の青年に目をつけたのは、やはり「マーキュリー」で編集者を務めていたアルフレッド・A・クノップフだった。慧眼の編集者はファンテにたいし、もし「執筆中か、あるいは構想中の長篇」があるのであれば、それを最初に読む機会を与えてほしいと要求する。若き作家に、かかる申し出を拒絶する理由はなかった。一九三三年二月、ファンテはクノップフと長篇執筆の契約を結ぶ。

親愛なるメンケン
 もっと早くお礼の手紙を書くべきでした。クノップフは契約を進め、僕は五〇〇ドルの前払い金を受け取りました。僕は今、この契約のために長篇を準備しているところです。六ヶ月以内に書き上げる予定です[…]。僕はこの本をあなたに捧げます、あなた以外に有りえません。もし、優れた小説が書き上がり、献呈に値するものとなったなら、ぜったいにそうします[…]。
(一九三三年三月二三日付け、ファンテの書簡)

親愛なるファンテ
 献呈先としてわたしを選んでもらえるなら、それはたいへん嬉しいことです。ただ、クノップフがそれを承諾するかどうか、わたしには保証できませんよ。じっさい、わたしは彼から、あなたの作品の概要を見せてもらっていないのです。もし、五〇〇ドルの前払い金について彼から助言を求められたなら、やめておけとわたしは答えたはずです。これはもちろん、あなたの実力を疑っているからではありません。わたしは単純に、前払い金というものには押しなべて反対なのです。
 健闘を祈ります。いったん仕事を始めさえすれば、あとは流れるように進められるでしょう。あなたの活躍を拝見することが、待ち遠しくてなりません。4
(一九三三年三月二八日付け、メンケンの書簡)

 早くも献呈先まで考えているあたり、いかにもこの作家らしい書簡である。もっとも、長篇の執筆は遅々として進まず、ファンテはこの先、前払い金には反対だというメンケンの言葉の意味を、身をもって思い知らされる。一九三四年四月、苦心惨憺の末に書き上げた長篇『パテル・ドローローソ(Pater Doloroso)』は、クノップフに「苦い失望」を引き起こす。契約の履行のためには、新しい小説を用意するよりほか手がなかった。
 一九三五年、ファンテは『ロサンゼルスへの道(The Road to Los Angeles)』の執筆を始める。「アルトゥーロ・バンディーニのサーガ」の幕開けを告げる本作品は、今日ではAsk the Dust(『塵に訊け!』都甲幸治訳、DHC、二〇〇二年)とならぶファンテ文学の双璧と見なされている。作家もまた、数十年後の評価を先取りするようにして、この長篇の価値に強い信を置いていた。原稿を仕上げた直後に親友のケアリー・マックウィリアムスに宛てた書簡からは、作品の出来栄えを喜ぶファンテの心境がひしひしと伝わってくる(なお、ファンテがマックウィリアムスと知り合うきっかけを作ったのはメンケンである)。

親愛なるケアリー
 […]タイピストと馬が合わなくて苦労してるよ。でも、ついにやったぞ、『ロサンゼルスへの道』を書き上げたんだ! 僕はすっかり満足してる[…]。この小説は強烈すぎるかもしれないな。つまり、優雅や洗練とはまるで無縁なんだ。でも、僕はそんなこと気にかけちゃいない。もし文学が血と痛みを必要としているなら、その渇きは『ロサンゼルスへの道』が癒してくれるはずだ。5
(一九三六年七月一四日付け)

 ところが、この作品に描かれる「血と痛み」は、同時代の出版人たちからことごとく否定された。三六年八月にクノップフから(またしても)刊行を断られたのを皮切りに、スタックポールやストーリー・プレスなど、原稿を持ちこんだすべての出版社から否定的な返事が届いたのである。執筆直後の昂揚はどこへやら、ファンテはマックウィリアムスに泣き言を漏らさずにいられなかった。

 親愛なるケアリー
 […]もしストーリー・プレスからあの本[訳者注:『ロサンゼルスへの道』を指す]の出版を断られたら、僕は原稿を回収して燃やすつもりだ。小説を書いているあいだも、それを出版社に売りつけようとしているあいだも、僕はずっと気が塞いで仕方なかった。あの本のことはもう忘れて、なにか別の仕事を始めたいよ[…]。なぁ、聞かせてくれ。挫けるには早すぎるかな? それとも、けっきょくのところあの本は、その値打ちにふさわしい扱いを受けたってことなのか?6
(一九三六年九月一三日付け)

 クノップフとの関係はここで完全に途絶える。一九三七年、ファンテは最後の望みをかけ、ニューヨークの大手出版社ヴァイキング・プレスに原稿を持ちこむが、編集者のザブドロウスキーは原稿を突き返し、「卑しく下劣な、若気の至りとも言うべきこの諷刺作品」に早く見切りをつけるよう作家に勧める。かくして『ロサンゼルスへの道』は、一九八五年(作家が息を引きとってから二年後)についに陽の目を見るときまで、半世紀にわたる長い眠りにつくことになる。
 それでもファンテは諦めなかった。一九三六年の秋には、お蔵入りとなった長篇『パテル・ドローローソ』の全面的な改訂に取り組みはじめる。本作は、イタリア系アメリカ移民家庭に生まれた十四歳の少年を主人公とする、一人称による独白体の小説だった。当時のアメリカで推奨されていた出産計画(birth control)とカトリック信仰の教えのあいだで、少年の両親が板挟みになるというのが物語の骨格である(カトリックは不妊手術や避妊行為を認めていない。この点にかんし、カテキズムの説明は明快である「たとえば直接的な不妊手術や避妊行為のように、夫婦好意の前、あるいはそれを行なう際、あるいはその自然的結果へ向かっているときに、達成すべき目的としてあるいは用いるべき手段として出産を妨げるすべての行為は、それ自体として不道徳です」7)。この『パテル・ドローローソ』が、『バンディーニ』の雛形となる作品である。出産計画のテーマは長らくファンテの心を惹きつけていたらしく、ザブドロウスキーに宛てた三七年十月の手紙のなかでも、イタリア系移民家庭と出産計画をめぐる小説を構想している旨を伝えている。
 一九三八年のはじめ、ファンテはスタックポール社のウィリアム・ソスキンに、『パテル・ドローローソ』の四三ページにわたる概要を送付する。本作品の内容はこの時点で、今日わたしたちの手許にある『バンディーニ』とほぼ一致していたものと思われる。ソスキンはかねてよりファンテの書く短篇に着目していた編集者で、ファンテの将来性に確信を抱いていた。ソスキンの力強い後押しの甲斐あって、スタックポールはファンテの長篇刊行を決断する。一五〇ドルの前払い金にくわえ、一ヶ月あたり一五〇ドルの分割金が四ヶ月にわたって支給される契約だった。三八年五月、出版社の勧めにしたがい、Pater DolorosoからWait Until Spring, Bandiniへとタイトルが変更される。「悲しみの父」を意味する「パテル・ドローローソ」では、小説のタイトルとしてあまりにも陰気であると編集部が判断したためだった。ファンテは同年の夏に執筆を終え、スタックポールに原稿を送付している。

親愛なるメンケン
 十月に僕の最初の小説を出版するため、ビル・ソスキンが準備を進めているところです。僕が長篇の執筆に挑戦するのはこれが三度目であること、覚えていらっしゃると思います。はじめの二度の試みは失敗に終わりました。ここまでの経緯は、あなたの言葉と完璧に一致しています。あなたは以前、作家は初めの二冊を葬り、三冊目を世に問うべきだと仰っていましたから[…]。ついに僕の本が出るのかと思うと、ひどく興奮してしまいます。校正刷りが届くまで、どうにも気持ちが落ち着きません。とても心地の良い感覚です。この本には素晴らしいタイトルがつけられました。『バンディーニ家よ、春を待て』。ビル・ソスキンはこの小説を大いに気に入っています。彼とはすでに、次の長篇についても話し合っています。僕はまた仕事を始め、次の春にはその長篇を刊行するつもりです[…]。8
(一九三八年八月二八日)

 すでに冒頭でも述べたとおり、『バンディーニ』は期待に違わず、批評家のあいだに熱烈な称賛を巻き起こした。クリスマスに間に合わせるため、本書は直ちにイギリスでも刊行され、十二月には早くもイタリア語の抄訳が発表されている。
 メンケンへの書簡のなかで触れられている「次の長篇」が、のちにファンテの代表作と見なされるようになる『塵に訊け』である。一九三九年一月、ファンテはスタックポールとあらためて契約を結び、五月一日までに原稿を仕上げることを約束する(刊行は同年十一月)。ファンテは長篇第二作の成功を確信し、偉大な作家たちと肩を並べるバラ色の未来を夢想していた。
 しかし、現実は厳しかった。好意的な書評に事欠きはしなかったものの、概して批評家たちは、前作『バンディーニ』を『塵に訊け』よりも優れた作品と見なす傾向にあった。くわえて、ファンテにとってはじつに間の悪いことに、版元のスタックポールが同時期に訴訟沙汰に巻きこまれ、『塵に訊け』の宣伝に注ぐべき予算が裁判の費用に使われてしまう。コピーライトを取得せぬまま『わが闘争』を出版した咎で、スタックポールはドイツ政府から訴えを起こされていた。アメリカの裁判所は、著作権法は第三帝国総統にたいしても等しく適用されるべきであると結論づけ、スタックポールの敗訴が確定する。賠償金の支払いが原因で、スタックポールは一九四一年に倒産する。こうしてファンテの小説は、書籍市場から速やかに姿を消すことになったのである。
 長篇の執筆に悪戦苦闘しているあいだも、ファンテは短篇の書き手として着実にキャリアを積み重ねていた。『バンディーニ』が刊行される以前に文藝誌に掲載されたファンテの作品は、じつに十四篇におよぶ(そのうちの九篇が、四〇年刊行の短篇集Dago Red[『デイゴ・レッド』栗原俊秀訳、未知谷、二〇一四年]に収録されている)。ファンテは短篇を書くことをとおして、自身の文学にふさわしい声やリズムを模索しつづけた。『バンディーニ』には、そうした「修業」の成果が目に見える形で現われている。たとえば、一九三二年から三三年にかけて「アメリカン・マーキュリー」に掲載された五つの短篇はすべて、イタリア系移民家庭に生まれ育った記憶や、少年時代に通っていたカトリック学校での体験を素材としている。9これらの短篇の主人公はいずれも、アルトゥーロ・バンディーニの(つまりは作家自身の)分身とも呼ぶべき存在である。
 一九三六年に発表された「雪のなかのれんが積み工(Bricklayer in the Snow)」となると、なおいっそう『バンディーニ』が描く世界に近づいている。試みに、その冒頭部分を抜き出してみよう。

 コロラドの冬は容赦なかった。毎日のように雪が降り、夕方には、これ以上ないくらい鬱々とした赤色の太陽が、ロッキー山脈の向こうに沈んでいった。山々を締めつける霧はふもとまで低く垂れこめ、僕らが雪玉を投げれば霧の裾に届くほどだった。あの白い洪水は木々にけっして休息を与えず、風に吹き上げられた重たい雪が、柵や石炭小屋の上に山と積もった。
(『デイゴ・レッド』二三頁)

 この短篇では、妻と四人の子供(息子三人と娘一人。これはファンテの家族構成と一致する)を抱えながらも、雪のせいで働くことができない「れんが積み工」の苦悩と苛立ちが描かれている。雪、貧しさ、イタリア系移民家庭の生活など、『バンディーニ』のうちに見られる要素のほとんどがここに出揃っている。『バンディーニ』とは言うなれば、「雪のなかのれんが積み工」を長篇に仕立て直した作品である。10この短篇には、夕食にスパゲッティを用意しようと言って、妻が夫の機嫌を取ろうとする場面がある。

 「今夜はスパゲッティにしましょうか?」母さんが微笑んだ。
 「どうでもいい」父さんが言った「好きにしろ」
 父さんは、コートのボタンをかけている最中だった。
 「あぁ、そうだな」父さんが言った「スパゲッティにしろ。チーズをたくさん入れるんだ」
(『デイゴ・レッド』三七ページ)

 『バンディーニ』の結末でも、スパゲッティ、トマトソース、ペコリーノ・チーズを用意して、マリアはズヴェーヴォの帰りを待っている。アルトゥーロは、長いあいだ家に寄りつかないでいた父に会いに行き、母はもう怒っていないと父を説得する。「今晩はスパゲッティだよ。怒ってたらスパゲッティは用意しないよ」(本書二八五頁)。スパゲッティとワインがあれば、胃と心はひとしく満たされ、食卓には笑いが響く。イタリア系移民家庭に生まれた作家が描く、平凡であり、そしてまた唯一でもある幸福の姿を、わたしたち読者はここに見い出す。
 あるいは『バンディーニ』の第四章、食料品店のクライクさんとマリアの「対決」に、ひとつの短篇のごとき密度と完結性を感じとった読者もいるかもしれない。じつは、この章は三七年に「スクリブナーズ・マガジン」に掲載された短篇「つけにしろ(Charge It)」を、ほぼそのままに転用したものである。ただし、「つけにしろ」の語り手の少年(すでにアルトゥーロ・バンディーニという名前を持っている)には、二人ではなく八人もの弟がいることになっている。執筆時期と照らし合わせて考えるなら、おそらくファンテはこの短篇を、出産計画をテーマにした『パテル・ドローローソ』の一部に組みこむつもりだったのだろう。
 『バンディーニ』と短篇作品の関連を挙げればきりがない。「ワップ」や「デイゴ」など、イタリア系移民への蔑称にたいする嫌悪と恐怖は、短篇「とあるワップのオデュッセイア」の中心テーマであるし、母親の長持ちを漁り若き日の美しい母の写真に見惚れる少年の姿は、短篇「プロポーズは誘拐のあとで」のなかに描かれている。短篇の執筆をとおして自家薬籠中の物とした素材をさまざまに利用することで、ファンテは『バンディーニ』という長篇を織りあげたのである。
 一九八〇年、サンタ・バーバラの出版社ブラック・スパロウ・プレスが『塵に訊け』を再刊し、八三年二月には、同出版社から『バンディーニ』が復刻される。ファンテが息を引きとったのは、同年の五月だった。ブラック・スパロウ・プレスの『バンディーニ』には、齢七十三を迎えたファンテによる短い序言が寄せられている。日本語に直して四〇〇字詰め原稿用紙二枚にも満たない、きわめて簡素な文章である。

 今やわたしは年老い、『バンディーニ家よ、春を待て』について思い起こそうとしても、過去のなかにその道すじを見失ってしまいます[…]。この本を読むことは、もう二度とないでしょう。けれどわたしは、作家としてのわたしが生涯に書いてきたあらゆる人物とあらゆる性格が、若き日のこの作品に見い出されることを確信しています。わたしはもう、そこからひどく遠ざかってしまいました。古い寝室の記憶と、スリッパを履いて台所へ歩いていく母の足音。それだけが、今でもここに残っています。
ジョン・ファンテ11

 『バンディーニ』のなかに、ファンテの書いてきた「あらゆる人物とあらゆる性格」が見い出されるという言葉は、かならずしも誇張ではない。事実、この長篇デビュー作には、ファンテの創作の根幹をなす三つの主題が明瞭に書きこまれている。それはすなわち、家族、イタリア、カトリック信仰の三要素である。父・子・精霊の三位は一体であるとするカトリックの教えのごとくに、この三つの主題はファンテの文学のなかで分かちがたく撚り合わされている。たしかに、『塵に訊け』のような作品においては、「家族」という要素は完全に後景へと退いている。しかし、イタリア系移民の第二世代として生きる居心地の悪さや、カトリック信仰にたいする軽蔑と愛着の葛藤などは、この「ロサンゼルス文学のマスターピース」のなかでも重要な役割を果たしている。『塵に訊け』では、夫に捨てられたヴェラ・リヴケンなる妖婦との逢瀬のあと、バンディーニ青年は深い罪悪感に苛まれる。この場面を、侍者のパーティーに向かう途中のアルトゥーロ少年の体験と比較することで、読者は二つの小説の主人公の同一性にはっきりと気づかされる。

 メアー・クルパー、メアー・クルパー、メアー・マクスィマー・クルパー![…]これは神の警告だった。彼の罪を知っているということを、神はそのようにして知らせたのだ。アルトゥーロよ、盗人よ、母親のカメオをくすねたこそ泥よ、十戒への反逆者よ。泥棒よ、泥棒よ、神から見放された浮浪児よ、魂の書物に黒い印を刻んだ地獄の子供よ。(本書一六四頁)

 メアー・クルパー、メアー・クルパー、メアー・マクスィマー・クルパー。大罪だぞ、アルトゥーロ。汝、姦淫するなかれ。間違いない、これは最期までつづくんだ、僕がしたことから逃れるすべはどこにもないんだ。僕はカトリックだ、これはヴェラ・リヴケンにたいして犯された大罪だ。12

 二人のアルトゥーロが口にしている呪文のような言葉は、「わが罪がため、わが罪がため、わが大いなる罪がため」という意味のラテン語表現で、ミサの冒頭や、告解を終えて赦しの秘跡を授かるときなどに、この文言を含んだ祈禱が唱えられる。「ニーチェもヴォルテールも読んできた」にもかかわらず、二十歳のバンディーニ青年は神の眼差しから自由になれない(ちなみに、若き日のファンテが愛読していた『反キリスト者』はメンケンによる英訳である)。そして、リヴケンに「大罪」を犯したその日の夕方、アルトゥーロの歩くロングビーチは大地震に見舞われる。青年はごく自然に、それを神からのメッセージとして読み解いてみせる。「お前のせいだ、アルトゥーロ。これは神の怒りだ、お前のせいだぞ」。ここで口にされている「神の怒り(the wrath of God)」という表現は、『デイゴ・レッド』に収録された一短篇のタイトルでもある。この作品においてもやはり、大地震をきっかけとして、語り手の青年が姦淫の罪を悔い、「血のなかを流れる」信仰へと回帰していく。地震を「神の怒り」として解釈することはカトリックの伝統であり、その起源は少なくとも中世にまで遡る。十三世紀、イタリアの修道士トンマーゾ・ダ・チェラーノ(一一九〇頃~一二六〇)は、地震の体験に触発されて、「ディエース・イーラエ(Dies Irae)」という詩を書いたといわれる。この韻文はやがて、死者のためのミサで歌われる聖歌の詞に採用され、カトリック信徒のあいだに広く流布することになる。「ディエース・イーラエ」とは「怒りの日」を意味するラテン語であり、怒りの主体は言うまでもなく全能の神である。地震への恐怖を媒介として、ファンテのなかの「信仰」と「イタリア」が、ここでもひそやかに結びついている。13すでに述べたとおり、『バンディーニ』にはもともと『パテル・ドローローソ』なる題名がつけられていたが、これは「悲しみの聖母」を意味する「マーテル・ドローローサ」の性を反転させた表現である(そもそもファンテは、構想の初期段階では「マーテル・ドローローサ」を作品のタイトルにするつもりでいた)。「マーテル・ドローローサ」は「ディエース・イーラエ」と同様に、カトリック教会の聖歌の一つでもある。家庭の記憶と、少年時代に授かったカトリック教育は、ファンテの紡ぐ物語を根底から支えている。『バンディーニ』をとおしてファンテが描こうと試みたのは、父の悲しみであり、母の悲しみであり、その二人を見守る聖母の悲しみでもあったのだろう。
 『バンディーニ』を通読したあと、その冒頭をあらためて読み返してみると、ファンテが驚くべき手際で作品の全体像を要約していることがよく分かる。日本語訳にしてわずか五行の第一パラグラフのなかに、寒さ(雪)、貧しさ(壊れた靴)、イタリアの血脈(マカロニの詰まった段ボール箱)といった、作品の基盤となる要素が次々に提示されている。そして第二パラグラフ、作家の語りは一挙に核心へと到達する。

 彼は家に帰る途中だった。けれど家に帰ることに、いったいなんの意味がある?(本書五頁)

 「家族」とは何か、帰るべき「家」とは何か、わたしたちはなぜ「家」に帰るのか。これこそが『バンディーニ』の叙述を駆りたてる問いかけであり、小説はこの問いへの答えそのものとして読むことができる。バンディーニ家の(ローンの払い終わっていない)屋敷の描写や、ロックリンの西の外れにあるヒルデガルド邸にまつわる記述は、「家」もまたこの作品の登場人物であることを雄弁に伝えている。
 ファンテの作品では「父―息子」の関係に焦点の当てられるケースが多いが、『バンディーニ』ではそこに母の存在が介入してくる。『バンディーニ』という小説を読んでいると、アルトゥーロの大好きな「父のハンカチ」に触れたときのように、「父と母の手触りがいちどきに」流れこんでくる。ファンテの作品のなかで、母にかんする叙述がこれほどまでの精彩を放っているのは、ほかに『デイゴ・レッド』だけだろう。ファンテの文学について語る際、イタリアの批評家はしばしば「イタリア的アメリカ性(italoamericanità)」という言葉を使う。これをあえて日本語に「翻訳」するなら、「イタリア系アメリカ移民の文化・習俗に認められる種々の典型的な性格」といった意味になる。『バンディーニ』と『デイゴ・レッド』は、ファンテの「イタリア的アメリカ性」がもっとも顕著に現われた二作品と見なされているが、こうした評価はそれらに描かれる「母」の存在によるところが大きい。14政治的な当否は措くとして、イタリアの社会的・歴史的な文脈においては、「母」の存在は避けがたく「聖母」のイメージへと接続される。『バンディーニ』のアルトゥーロが、母マリアに聖母の姿を重ね合わせていることは、あらためて指摘するまでもない。「マンマ」とは「マリア」であり、すべての「息子」たちのために祈りを捧げる慈しみに満ちた存在である。『デイゴ・レッド』所収の短篇においても、語り手のジミー・トスカーナは頻繁に聖母の名を口にしている。巻末にはほかでもない、「アヴェ・マリア」と題された一篇が収められ、ファンテは聖母への祈禱とともに、静かに作品の幕をおろしている。
 二〇世紀初頭、南北アメリカやオセアニアへ、南イタリアからの移民が大挙して流れこんでくる。イタリア史はこの現象を「グラン・エクソダス」と呼んでいる。ファンテの父ニックもまた、これら大量移民に立ち混じり、新大陸を目指した若者の一人だった。ファンテが作家としてデビューした一九三〇年代とは、「グラン・エクソダス」世代の子供たちが成人を迎えた時期にあたる。それはまた、アメリカ文学史において、「イタリア系アメリカ文学」がもっとも豊かな実りをもたらした数年間でもある。試みに、三〇年代末から四〇年代の初めに書かれた「イタリア系アメリカ文学」を列挙してみよう(なお、ここでいう「イタリア系アメリカ文学」とは、たんに「イタリア系移民作家によって書かれた」というだけでなく、先に触れた「イタリア的アメリカ性」が色濃く認められる作品を指している)。

 三八年 ジョン・ファンテ『バンディーニ家よ、春を待て』
 三九年 ピエトロ・ディ・ドナート『コンクリートのなかのキリスト(Christ in Concrete)』
 四〇年 ジョン・ファンテ『デイゴ・レッド』、グイド・ダゴスティーノ『林檎の木になるオリーブ(Olives on the Apple Tree)』、ジョー・パガーノ『パイザーノズ(The Paesanos )』
 四三年 ジェルレ・マンジョーネ『モンタッレグロ(Montallegro)』、マイケル・デ・カピテ『マリア(Maria)』、ジョー・パガーノ『ゴールデン・ウェディング(The Golden Wedding)』

 これらの作品すべてに共通して認められる特徴は、作家の自伝的な要素が強いこと、ならびに、家庭での記憶や体験を小説の題材に用いていることである。イタリア系アメリカ移民の第一世代は、自らの物語を文学作品として残そうとしなかった。正確には、残したくても残せなかった。アメリカに渡った移民の大半は文盲であり、英語はおろかイタリア語さえ読めなかったからである。『バンディーニ』に登場するズヴェーヴォの親友ロッコもまた、英語の「読み書き」を知らない人物として描かれている。ズヴェーヴォはロッコと較べ、いくぶん巧みに英語を操るようだが、そうは言っても、「自分がよくつづり字を間違えること」を自覚している。紙の上に自らの体験を書き記すなど、彼らからすれば酔狂とさえ映る行為だったろう。けれど、第一世代が生きてきた物語には疑いなく、「誇るべき何か」(本書三九頁)があった。たしかにズヴェーヴォは「本は読んでこなかった。つねになにかに追い立てられ、気苦労ばかりの人生を送ってきたズヴェーヴォに、本を読むための時間はなかった。それでも彼は生の言葉を、未亡人よりずっと深く読むことができた。未亡人の屋敷が書物で溢れかえっていようと関係なかった。彼の世界は、語るに足りる事柄に満ちていた」(本書二二三頁)。語るべき物語を持ちながら、それを伝える手段を持たない「父」たちに、ファンテたち第二世代の作家は「声」を貸した。イタリアの作家メラニア・G・マッツッコが指摘するように、この年代に書かれた「イタリア系アメリカ文学」は総体として、イタリア系移民家庭の「集合的な自画像(un autoritratto collettivo)」を形づくっていると言えるだろう。15
 一九三九年、長篇第二作『塵に訊け』が刊行された直後、ファンテは二歳年上の従姉ジョゼフィン・カンピリアに宛てて、次のような手紙を書き送っている。

親愛なるジョー
 手紙をありがとう。『塵に訊け』よりも『バンディーニ』の方が好きなんだね。大丈夫、そう言われたって驚かないし、がっかりもしないよ。僕としては、『塵に訊け』は『バンディーニ』 よりうまく書けた小説だと思ってる。でも、『バンディーニ』の物語は『塵に訊け』より、ずっと僕に近いんだ。だから僕はあの新作を、『バンディーニ』の熱っぽい調子で歌わせてやることができなかった。一冊目は、僕の心から出た小説だ。だけど二冊目は、僕の頭と○○○から出たってわけだな(「チ」で始まり「コ」で終わる、アレだよ)[…]。16
(一九三九年一一月二三日付け)

 『塵に訊け』のみならず、ほかのどの作品と比較しても、『バンディーニ』はおそらく、もっともファンテに「近い」作品である。ファンテの生と文学は本書において、たがいに見分けがつかないほどに折り重なっている。先に引いた序言のなかで老いたファンテは、自分が『バンディーニ』からひどく遠くに来てしまったことを認めている。それでも、古ぼけた寝室の光景と、スリッパを履いて歩く母親の足音だけは、今でもその胸に残っている。『バンディーニ』とはファンテにとって、帰るべき「家」のごとき小説である。それはファンテの心からひどく近く、それでいてあまりに遠く、けっして帰ることが叶わない家でもある。生の航路を終えようとするさなか、眼差しのはるか先でその家は揺らめき、ファンテの心を引きよせつづける。母の祈り、弟たちの寝言、父の罵り。記憶の彼方の家から響くそうした声が、『バンディーニ』という歌を奏でている。

 本訳書は、ブラック・スパロウ・プレスから再刊されたWait Until Spring, Bandiniを底本として利用しました。「あとがき」のなかでも触れたとおり、ファンテはこの版に短い序文を寄せています。本来であれば、本訳書にもその序文を掲載すべきでしたが、著作権の問題があり叶いませんでした。ご興味のある方は、原著をご参照いただければ幸いです。二〇〇語にも満たない、静かに語りかけてくるような序文です。現在では、Harper Perennialから二〇〇二年に再刊された版が、もっとも手に入りやすいようです。あるいは、エディンバラ-ロンドンの出版社Canongateからも、廉価版が刊行されています。こちらの版では、ファンテの次男で作家でもあるダン・ファンテの序文を読むことができます。
 本書の刊行にあたっては、未知谷の飯島徹さん、伊藤伸恵さんに、たいへんお世話になりました。最初の読者としてこの二人を念頭に置いているからこそ、迷いなく仕事を進められたように思います。また、昨年に刊行された拙訳『デイゴ・レッド』に感想を寄せてくださった皆さまにも、心からお礼申し上げます。「ほかの翻訳も読みたい」という読者の方々の声が、仕事に取りくむための原動力になりました。本書のカバーには、『デイゴ・レッド』に引きつづき、みやこうせいさんに作品をご提供いただきました。ナポリの路上で撮影したものだと聞いています。一九五七年、ファンテは映画のシナリオ執筆のために、ナポリを訪れています。ひょっとしたら作家もまた、同じ通りで、似た光景を目にしていたかもしれません。

二〇一五年三月 船橋にて
訳者識

1. Fante, John. Lettere 1932-1981, introduzione di F. Durante, a cura di S. Cooney, traduzione di A. Osti, Torino, Einaudi, 2014, pp. 375-376.
2. 『バンディーニ』の刊行当時の評価は以下を参照。Cooper, Stephen. Full of life: A biography of John Fante, North Point Press, New York, 2000, pp. 156-157.
3. メンケンは『塵に訊け』に登場するJ.C.ハックマスのモデルである。ハックマスとバンディーニ青年の関係は書簡のやり取りのみで成り立っているが、現実にも、メンケンとファンテは生涯にわたり一度も顔を合わせる機会を持たなかった。
4. John Fante & H. L. Mencken: A Personal Correspondence 1930-1952, ed. M. Moreau, Consulting Editor, Joyce Fante, Black Sparrow Press, Santa Rosa, 1989, pp. 47-49.
5. Fante, John. Selected Letters1932-1981, ed. Seamus Cooney, Santa Rosa, Black Sparrow Press. 1991, p. 129.
6. Ivi, p. 131.
7. 『カトリック教会のカテキズム要約』カトリック中央協議会、二〇一〇年、二四九頁。
8. John Fante & H. L. Mencken: A Personal Correspondence 1930-1952, cit., p. 121.
9. 発表の年代順に並べると、以下のようになる。「ミサの侍者(Altar Boy)」(三二年八月号)、「お家へ帰ろう(Home, Sweet Home )」(三二年一一月号)、「はじめての聖体拝領(First Communion)」(三三年二月号)、「大リーガー(Big Leaguer)」(三三年三月号)、「とあるワップのオデュッセイア(The Odyssey of a Wop)」(三三年九月号)。以上はすべて、短篇集『デイゴ・レッド』に収録されている。
10. イタリアの批評家エマヌエーレ・トレヴィは、「雪のなかのれんが積み工」を『バンディーニ』の「ミニアチュール(miniatura)」と呼んでいる。Cfr. Trevi, Emanuele. Storia di ‘‘Aspetta primavera, Bandini’’, in J. Fante, Aspetta primavera, Bandini, Torni, Einaudi, 2005, pp. xvi-xvii.
11. Fante, John. Preface, in Wait Until Spring, Bandini, Santa Barbara, Black Sparrow Press, 1983, p. 8.
12. Fante, John. Ask the Dust, Santa Barbara, Black Sparrow Press, 1980, p. 96.(邦訳一三九頁)
13. 『塵に訊け』や短篇「神の怒り」における地震の描写は、ファンテの実体験に基づくものである。一九三三年三月十日、ファンテはロングビーチで大地震に見舞われている(ファンテはその頃、年上の恋人ヘレン・パーセルと生活をともにしていた)。トンマーゾ・ダ・チェラーノの「ディエース・イーラエ」とファンテの作品のつながりにかんしては、以下を参照。Cooper, Stephen. Full of life: a biography of John Fante, cit., p. 108.
14. 『バンディーニ』と『デイゴ・レッド』の「イタリア的アメリカ性」にかんしては以下を参照。Durante, Francesco. Uno dei «Big Boys», in Fante, Romanzi e racconti, Milano, Arnoldo Mondadori Editore, 2003, pp. xx-xxiii.
15. Cfr. Mazzucco, Melania G. Mani di pietra e mani di carta : tre generazioni d’italiani d’America, in M. Ganeri, L’America italiana: epos e storytelling in Helen Barolini, Arezzo, Zona, 2010, p. 17.
16. この書簡のつづきには、以下のような一節がある。「僕には追い風が吹いている。金にまつわる問題は、これで完全に片づいたはずだ。ヴァイキング・プレスは僕の新作に、四〇〇〇ドルの前払い金を支払うと言ってきた[…]。次の小説のおかげで、僕のふところにはきっと大金が転がりこむ。だけどそんなことはどうだっていい。前もって批評するなら、偉大にして強烈でもあるその小説が、フォークナーやシンクレア・ルイスやトム・ウルフに匹敵する作家へと、この僕を高めるんだ。なにもかもがこんなにも早く実現することに、僕は少し心配してる。この調子じゃ、四〇、四五、五〇歳になったとき、いったい僕はどうなってしまうのだろう? できることなら、のんびり進みたいんだけどな」(John Fante, Selected Letters 1932-1981, cit., pp. 157-158)。『塵に訊け』のなかに紛れこんでいたとしても、少しも不思議ではない文章である。こうした手紙を読むにつけ、ファンテの文学とはファンテの生そのものであったことが痛感させられる。註釈10でも名前を引いたエマヌエーレ・トレヴィは、「自伝的な記憶をたどりながらも、時に応じてそこから遠ざかる権利を保持している語りの形式」を備えているという点で、日本の私小説の伝統とファンテの文学の類縁性を指摘している。Cfr. Trevi, Emanuele. Storia di ‘‘Sogni di Bunker Hill’’, in J. Fante, Sogni di Bunker Hill, Einaudi, 2004, p. xv. なお、ファンテが現実に歩んだ道のりは、従姉ジョゼフィンに披露したバラ色の未来予想図とは(相当に)乖離したものとなった。ファンテの名声が高まり、アメリカのみならず世界(おもにヨーロッパではあるが)の読者に受け入れられるようになるのは、作家の死後のことである。一九八〇年代以降の「ファンテ・リバイバル」にかんしては以下を参照。長岡真吾「「賢者」と「残忍なまでの正直者」:1930年代のジョン・ファンテ」、『言語文化論集』、五五号、二〇〇一年、二二三~二三八頁。訳者の知るかぎり、少なくとも今日のイタリアでは、ファンテは「フォークナーやシンクレア・ルイスやトム・ウルフ」より、はるかに広く読まれている作家である。その全作品は、トリノの名門出版社エイナウディから刊行されている。

(出典:ジョン・ファンテ『バンディーニ家よ、春を待て』栗原俊秀訳、未知谷、2015年)

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